江ノ本のつれづれblog

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『ゴジラ-1.0』戦争で負った心の傷を救うものは何か

※本記事には『ゴジラ-1.0』のネタバレがちょっぴり含まれますので、まだ見ていない人は先に映画を見てください。めちゃくちゃおもしろいです!

みなさん、こんにちは。

今回は人気怪獣映画ゴジラシリーズ最新作『ゴジラ-1.0』をきっかけに、戦争で負った心の傷について考えてみました。

作品の中でゴジラ(戦争で負った心の傷)に立ち向かう人々の力は知恵・勇気・愛です。

本作は第二次世界大戦終戦後のお話ですが、現代に生きる私達にも無関係なことではありません。

戦争で負った心の傷という問題に、私達は向き合えているでしょうか。

ゴジラ-1.0』基本情報

監督・脚本・VFX山崎貴

製作:東宝

公開:2023年11月3日

あらすじ

第二次世界大戦末期、特攻隊としてゼロ戦に搭乗した敷島 浩一(神木 隆之介)は、機体の故障を偽り守備隊基地が設けられた小笠原諸島に位置する大戸島に不時着します。

敷島は大戸島で未確認生物ゴジラに襲撃される。恐怖で何もできず、敷島は仲間を見殺しにしてしまいます。

東京での新しい生活が始まり、愛する人や仲間達に恵まれた敷島の心は次第に回復していきますが、それでも度々大戸島での悲惨の光景を思い出し、敷島は終戦後も深い自責の念に苦しめられ続けます。

そんな生活の中でゴジラは再び敷島の前に姿を現します。米軍の水爆実験の影響でさらに巨大化・狂暴化したゴジラに対して日本は民間人のみで組織された戦力で立ち向かいます…。

本作のゴジラが表すもの

本作においてゴジラ「戦争で負った心の傷」を表しています。

もともとゴジラというキャラクターは、1954年公開の第1作『ゴジラ』においても米軍の水爆実験によって目覚めた太古の生物です。東京に上陸し戦後復興を成し遂げようとする街を破壊します。第1作のゴジラ戦争による暴力、核兵器そのもののメタファーとして機能しています。

一方で、本作『ゴジラ-1.0』のゴジラは、圧倒的な破壊力を持った脅威としてだけでなく、敷島が抱える終戦後も癒えることのない心の傷としても描かれています。敷島の人生が軌道にのるたびに襲い掛かるゴジラ心的外傷後ストレス障害PTSD)の症状として見ることができます。作品中で自身の行動を咎められた敷島は「オレの…戦争が終わってないんです…」と口にしました。

ゴジラに対抗する人間の力

本作において人類は未知の脅威であるゴジラに対して知恵と勇気と愛によって生み出された力で立ち向かったと私は見ました。

本作の日本にはまだ自衛隊は存在せず、武力に関しては米軍から返還された旧日本軍の重巡洋艦「高雄」や駆逐艦、戦後のどさくさで残されていた局地戦闘機震電」程度しか保有していません。その中で、終戦後民間人となった元軍人達が知恵と勇気を振り絞り、愛する日本、愛する人々のために「ハズレくじ」を引いたとしても「誰かがやるしかない」とゴジラに立ち向かうワダツミ作戦を計画し決行します。

これは、第1作『ゴジラ』(1954)で描かれたオキシジェン・デストロイヤーによるゴジラ撃退とは対照的に見えます。オキシジェン・デストロイヤーや、青年科学者 芹沢 大助(平田 昭彦)によって発見された技術を利用して作られた新兵器です。この兵器は水中の酸素を一瞬のうちに破壊し尽くしあらゆる生物を窒息死させるものです。この技術が原水爆に続く新たな大量破壊兵器を生むことを憂えた芹沢は自身の研究を全て破棄し、海中のゴジラに対してオキシジェン・デストロイヤーを使用する際に自身も海の泡の中へと消えていきます。

第1作『ゴジラ』(1954)には人類に対する諦観と絶望の空気が漂っているのに対して、本作『ゴジラ-1.0』には人類に対する期待と希望を感じることができました。

現代にもゴジラは生き続け、新たに生まれている

作中では敷島の中の「終わってない」戦争はゴジラに立ち向かうことによって終わりを迎えます。

では現実はどうでしょうか。戦争で負った心の傷はゴジラのようなわかりやすい形で具現化しません。簡単に瘉えるものではないのです。心の傷が癒えぬままに亡くなっていった戦争経験者も数多くいたに違いありません。

1982年公開の『ランボー』(原題: First Blood、監督:テッド・コッチェフ)で、ベトナム戦争から帰ってきた主人公ランボーシルベスター・スタローン)は、かつての上官から「ランボー、戦争は終わったんだ」と諭されますが「いいや戦争は終わっちゃいない!!」と叫びました。

アメリカではベトナム戦争後も数々の軍事行動が行われ、PTSDで苦しむ元兵士が次々と生まれています。戦争で負った心の傷の問題は根が深いのです。今も世界中で紛争や戦争が起き、世界中に心の傷を負った兵士や民間人が増えています。

本当の「戦後」には心の救済が必要だが…

「もはや戦後ではない」(中野好夫の評論文のタイトル)という言葉がかつて日本で流行しました。これは高度経済成長による物質的な復興に限定した「戦後」です。ひとりひとりの心が救済されたことによる戦争の終わりが訪れていたとは思えません。
日本が最後に経験した戦争、先の大戦の当事者世代は年々数を減らしています。先の戦争による心の傷を負った人間はいずれいなくなり日本にもう一度「戦後」が訪れるでしょう。
現実問題として、先の大戦を経験し存命の全ての各国元兵士の心を映画の中のように癒やすことはできず、世代の入れ替わりによる先の大戦の「戦後」は確実に訪れます。その時に戦争の悲惨さを風化させない努力、それに関しては私達は力を入れていると言えます。
しかし、今も苦しんでいる人達に対して、今私達は目を向けているでしょうか。

私達はゴジラに立ち向かえるか

ゴジラ-1.0』の物語の中で人々は知恵と勇気と愛によってゴジラ(戦争で負った心の傷)に立ち向かい心の傷を癒やし「戦後」を手に入れました。

作中では戦争経験のない水島(山田 裕貴)はワダツミ作戦から外され、戦争経験者達だけで戦争とケリをつけようとします。水島は作戦終盤にかけつけピンチを救います。水島の中にある日本、そして共に生活した仲間に対する愛が知恵と勇気を生み、そして力となりました。戦場を知らない世代にもやれることはあるのです。
一方で、水島同様に戦争経験の無い現代の私達は、戦闘終了後の傷ついた人々に寄り添い「戦後」を共に築くために何ができるでしょうか。その人々に向き合う知恵・勇気・愛を持ち合わせているでしょうか。

ゴジラ-1.0』は今一度戦争について自身に問いかけるきっかけとなりました。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました!